イラスト「伊能忠敬と田沼意次」の説明はここをクリック

日本地図を作った男・伊能忠敬。

彼は、田沼意次が側用人と老中を兼任して、政治の主導的な立場となったとき、茨城県と千葉県の境目の利根川と霞ケ浦の分岐点の町・“佐原”の一商人に過ぎなかった。

当時、“佐原”は、江戸と江戸川・利根川を通して繋がっていたため、江戸からの文化が銚子に次ぎいち早く伝わり、小江戸と呼ばれたほどだった。 そんな文化的で、しかも発展した町の代表格ともされる伊能家の婿に忠敬は入ったのだ。

江戸時代にいち早く商業資本の積極的な政策を摂った事で知られる田沼意次は、江戸と密接な関係をもつ江戸川・利根川の河岸問屋を公認として定めることで、運上金を徴収する政策に出ていた。

小江戸とも呼ばれた“佐原”も例外なくその影響が及び、町の代表格とも言われる伊能忠敬は勘定奉公所へ赴き、色々あった末、公認河岸問屋となり経営をすることを決めた。

田沼意次が側用人と老中になったのは1769年の事で、この事件は1771年頃に起こった。

この数年後、田沼意次が保護した蘭学が花咲き杉田玄白の『解体新書』が世に現れることになる。

この蘭学の流れは、決して日本地図の作製とは無関係ではなかった。

日本地図を正確に作るという事は、天文学に対する正確な知識を持ち、緯度と経度を確定させた上で測量しなくてはならず、この作業は蘭学の天文学の知識が必須だったのだ。

伊能忠敬が蘭学の天文学を学ぶのは、田沼意次の死後少したってからが、その頃根付いた蘭学の流れからティコ・ブラーエやケプラーの知識を忠敬は学んだという。

またその後日本地図の測量のために、蝦夷地も訪れるのだが、それは蝦夷地の開発を進めた田沼意次の政策の延長上でもあった。この蝦夷地の測量が伊能忠敬と間宮林蔵を結びつけるきっかけともなる。

日本地図を作るという作業はそれ自身もすごい事であるのだが、それを支える確かな知識や背景があるからこそ価値があるのだ。伊能忠敬の死後、日本から日本地図を持ち出そうとした出島のオランダ商館長シーボルトも、西洋に引けを取らない水準として絶賛している。

伊能忠敬は、1745年に生まれた。

杉田玄白が1733年に生まれ、ルイ16世が1754年生まれているから、その間位の人物である。

千葉県の九十九里浜の近くの町で生まれたようだ。

1742年には、当時江戸と江戸川~関宿~利根川で結ばれた、小江戸とも呼ばれる程文化の発展した“佐原”の代表格とも言われる伊能家に婿入りした。

伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根の水運にも関わっていたが当主不在の時代が長く続いたために事業規模を縮小していた。そのため、家の再興のため、新当主の忠敬に大きな期待を寄せられたという(Wikipedia参照)。

そして忠敬は期待に答え、商人として引退するまでには伊能家の財産を3倍にしたらしい(伊能記念館の展示参照)。実際、祭りにおける勢力争いに関して上手く立ち回り、田沼意次の政策による公認河岸問屋においても上手くこなし、天明の飢饉のときには利根川の堤の修築などをして佐原のリーダー格としてのカリスマ性を発揮している。

 しかし、忠敬の価値はここで終わらない所である。

商人として引退後、文化的に発展した佐原の地で働きながら新しい見聞を広めていた忠敬は、なんと西洋の天文学を学べる江戸の塾に通い始める。50歳過ぎての話である。

 当時、江戸の蘭学における天文学の分野では日食を正しく計算して導き、地球の大きさを正確に把握し、子午線一度を導き出せることが理想とされていた。

 高橋至時(後にシーボルト事件にかかわる高橋景保の父)の門下に入り、オランダ語でフランス人ラランデの天文学を学んだようである。Wikipediaによるとケプラーやティコブラーエの天文理論を学んだといわれている(当時はもうケプラーなどをまとめたニュートンの万有引力はとっくに発見されているため、実際はもっと高水準のを学んだのでは)。

 そして、忠敬は天文学を学ぶ中で、その知識を活用して正確な地図を作ることの必要性を悟り、幕府において地図を作る部署を作る影響まで与えたという。

 こうして、伊能忠敬の日本地図測量の旅は始まったのだ。

 この旅が、蝦夷に赴いていた間宮林蔵と出会い、間宮林蔵の樺太測量に繋がる。

 そして、忠敬の師の子・高橋景保はシーボルトの植物学などの知識を得るために、この正確な日本地図を秘密裏に渡し、シーボルト事件に繋がっていく。

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